庄内・清川口の戦い {戊辰戦争・越後国・歴史}

庄内藩では、江戸市中警備を行っていた新徴組を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の天領を接収してしまう。

4月10日、このことを口実に奥羽鎮撫府は庄内征伐を決め、久保田、弘前両藩に討ち入りを命じた。

14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。

24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。

この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。

会津藩と庄内藩はともに朝敵とされたことから、会津藩は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。

そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。

結局、前述の仙台藩の会津出兵による説得は功をなさないものであったと言えよう。

こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。
update:2010年03月06日